皆さんは神仏を拝む時、どんなことを想って手を合わせていますか?
たいていは願い事が叶いますようにと祈りながらわずかなお賽銭をあげます。でも僅かなお賽銭で本当に願い事が叶うのでしょうか?多額のお賽銭なら思うようになるのでしょうか?
だれも拝んで本当に願い事が叶うという確信は持っていないでしょう。それでは、ただの気休めで拝んでいるのでしょうか?
本来、賽銭とは神仏から受けためぐみにお礼と感謝の気持ちで差し上げる性質のものですが、こちらの意味で賽銭をあげることは少ないようです。
何度も何度も一生懸命拝んでも思い通りにならないことがあります。そんな時は、ここの神仏はだめだ、別の所に行こうと思ったりしませんか?挙句の果てにはもう拝むのはやめた、ということにもなりかねませんね。これは拝み方が間違っているからそのようなことになるのです。
実は、神仏を拝むにはふたつの拝み方しかありません。ひとつは懺悔つまり反省です。神仏の前でまずすることはこれです。私たち僧侶は、仏さまの前で必ず最初に懺悔を行います。日常の行いの反省の気持ちをこころに浮かべ、仏さまにお許しを願います。そのあと仏さまを讃えるお経をお唱えします。拝み方の二つ目は感謝です。毎日生活ができ、生きていられることの感謝の気持ちを表すことがとても大切です。また願い事が叶った時にも感謝の気持ちを持つことが必要です。自分の力だけでなく、多くの人々のおかげでいい結果が出たと感謝する気持ちを表わさなくてはなりません。
懺悔と感謝、神仏に手を合わせて拝む時はこの二つがとても大切で、これ以外のことは必要ありません。お賽銭の多寡には関係ありません。この懺悔と感謝の気持ちを正しく表すことができますと、願い事がどのような結果になってもそれを納得して受け入れることができます。
日常生活で私たちは様々な喜怒哀楽を経験します。それが大きすぎると正しい判断ができなくなります。神仏の前で懺悔と感謝の二つさえできれば、自ずから素晴らしい人生が見えてきます。
最近は、毎日の生活の中で神仏に手を合わせる機会が少なくなっているように思います。ほとんどの家には仏壇や神棚がなくなり、手を合わせる場所がありません。どうにか食事の前後に手を合わせる程度です。それも拝むということでなく、マナーの一つとしてする程度です。本当はそこでも反省と感謝の気持ちで神仏を拝まなくてはならないのです。それによって正しい食事ができるようになるのです。
十輪院 住職 橋本純信
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