謹んで新年のご挨拶を申し上げますとともに、昨年も当山への多大なお支えとご理解を賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。
当山のご本尊・地蔵菩薩が祀られる石仏龕(せきぶつがん)には様々な彫刻が施されています。そのうち、地蔵菩薩のすぐ脇には、左右5体ずつ「十王(じゅうおう)」が刻まれています。
十王信仰は中国で仏教と道教が習合し、成立しました。日本では鎌倉時代に十王と十仏が相対させられ、江戸時代に十三仏信仰に発展していきます。死後において繰り返しお裁きを受けたり、仏様にお救い頂いたりしながら、六道輪廻の転生先が決まるという思想です。いわば、十王が裁判官で、十仏が弁護人、遺族が証人です(検察は倶生神といったところでしょうか)。
現代においては、死後においてなお、裁きを受ける必要性に疑問を感じられる方もいらっしゃるかもしれません。誰しも「立派に生きていただいた」と信じてお送りしたいものです。
しかし、中世の方々にとっては、突然に訪れる大切な方との、悲しく時に理不尽な別れを受容するためには、時間をかけてそのプロセスを明確にする必要があったと私は考えます。場合によっては、死後に公正なお裁きがあるからこそ安心できるような、生前の報われない出来事もあったのではないでしょうか。
私たち人間は、短期間に大きな悲しみや苦しみを受け入れることはできません。しかし、目を背けることなく、時間をかけて少しずつ受け入れていくことを、先人の智恵から学ぶことが出来ます。昔ながらの追善のご供養をご負担に感じられることもあるかと思いますが、形式にとらわれず、少しでもご負担を減らしつつ、お智恵を継いでいけるよう、精進してまいりたいと思います。
また、地蔵菩薩を本地とする五七日の閻魔王は、俱生神(くしょうじん)からの報告を浄玻璃(じょうはり)の鏡に映し出させ、それを判断材料にして、亡者の審理と裁判を行います。俱生神は、人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に乗って全ての行為を記録します。右肩に乗って悪行ばかりを記録する女神を同生(どうしょう)、左肩に乗って善行ばかりを記録する男神を同明(どうみょう)と呼びます。下の絵で鏡に映し出されているのは、亡者が生前に大きな建物に火を放ったか、火事場泥棒をしているかにも見えます。
一見、恐ろしいだけの仕組みにも思えますが、現代において私たちの生活には、監視カメラやドライブレコーダー、マイナンバーカードや暗号資産などが浸透してきています。もしかすると、私たちは、自らの善行も悪行も『筒抜け』の状態を敢えて選択することによって、かえって安寧を得られるのかもしれません。
そのために仏教には、『懺悔』と『感謝』という方法があります。
十輪院 住職 橋本昌大
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