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こころの便り
2014/08/07
フナと三十七回忌

子供が飼っていたフナが死んだので拝んでほしいという依頼を受けました。若い夫婦と4才の男の子が来ましたが、子供は意味がよく分からず畳の上で寝そべったり、動き回ったりと落ち着くことがありませんでした。死んだフナを前にして読経が始まると両親は手を合わせ拝み始めました。それを見て子供も手を合わせる仕草をし、最後には正座をして静かに座っていました。

死産の子供の三十七回忌をして欲しいという依頼を受けました。両親と子供たちの家族12名がやって来ました。親、子、孫の3代です。亡くなってから欠かさず年忌法要を営んでいる人で、帰り際に父親は、「次は五十回忌をまたお願いします」と言って帰りました。

どちらも最近あった話です。都会で飼っていたペットが死ぬと、その処置に戸惑います。小動物なら、「可哀想だったね」と言って生ごみと一緒に捨ててしまうところです。しかし、同じ捨てるにしても、拝んでから捨てるという行為はおおきな意味を持っています。どんな生き物であっても唯一の「いのち」があり、人間の「いのち」に通じるところがあります。弔うことはその「いのち」に対しての敬虔な気持ちを表し、尊厳たらしめる行為と言えます。それは私たちが様々な多くの生き物と深く係り合いながら生きていることを知らしめる、とても大切なことでもあります。

日の目を見ずに生まれてきた子供は哀れで、悲しいことに違いありません。弔って欲しいと依頼を受けることはよくあります。しかし、大概は2,3年もすれば来なくなります。それで供養は済んだと思うのでしょう。しかし、いつまでも供養してやりたいと願う人もいます。ほかの子供は無事に育っているが、その子は一番可哀想な子供だから親が元気な間は充分に弔ってあげたい、という想いです。それだけでなく、子供や孫にもこの想いを伝えたいという気持ちで家族みんなを連れて寺にきました。「いのちの繋がり」というものを感じます。人は多くの人や他の生物の犠牲の上に生きていると言えます。供養は自分と死者との「いのちの繋がり」を実感足らしめる行為であると思います。

最近は、驚くべき殺人事件があとを絶ちません。何の恨みもないのに簡単に他人の命を奪ってしまう犯罪が目につきます。相手を単なる生き物としてしか考えていない行為です。そこには「いのち」あるいは「いのちの繋がり」といったものが感じられません。人間だけでなく、どんな生き物にも唯一の「いのち」があり、また多くの「いのち」がその背後にあることを忘れてはなりません。

山の頂点に立つ唯一の自分、そのすそ野は多くの「いのち」の積み重ねに他なりません。供養はそのことを思い起こさせてくれる手段と言えます。

十輪院 住職 橋本純信