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こころの便り
2012/07/25
鈴虫のいのち


「命を無くす」「命を捨てる」「命を断つ」あるいは「命を預ける」「命を拾う」という表現を私たちは何気なく使っています。この場合の「命」とは寿命、生涯を意味しています。しかし「いのち」と言った場合はもっと大きな、深い意味を持つようになります。どちらかと言えば「命」は科学的で自己中心的な言葉、一方「いのち」と書けば宗教的、普遍的な意味合いが感じられます。「命」と「いのち」どちらが人間的でしょうか?「命を大切にしよう」といった場合の「命」は「いのち」と表現したほうがいいと思います。

「いのち」は体のどこにあるのでしょうか。頭?心臓?胸?体全体?見せることも取り出すこともできません。でも体の中に確かにあります。見えないものはなくなることもありません。それでは死んだら「いのち」はどうなるのでしょう?

 

山岡宗八氏の『柳生宗矩』の中にこんな話が出てきます。

剣豪宗矩の妻おりんが死んだとき、11歳の十兵衛は遺骸にすがり付き、自分の体温で温めて必死で生き帰らそうとする。見かねた宗矩は、それはセミの抜け殻と同じで、母は郷里の柳生へ帰ったと諭す。納得しない十兵衛に対し母をここに連れて来てやると約束をする。

使いの者が郷里から持ってきた鈴虫のはいった虫籠を見せて、この中に姿を変えた母親がいると言うが十兵衛は理解できない。しかし鈴虫が母親の好きであったキュウリを食べる様子を見て、徐々に気持ちを切り替えていき、遂には毎日寝るのも惜しんで世話をするようになった。ところがある日、鈴虫の数が減っているのに気づく。よく見るとオスの鈴虫がメスに食べられていた。慌てて引き離したが、オスは自分から進んでメスに食べられに行くではないか。やがてメスの鈴虫も死んで死骸を残し一匹もいなくなってしまう。

呆然としている十兵衛に宗矩は諭す。亡骸を残して土の中に姿を隠したのだ。来年の春にはこの土の中からまた出て来て美しい声で鳴き出すであろう。母は姿を隠したがお前たち兄弟の体の中に生きていると。

 


「いのち」は先祖から受け継ぎ、子孫へと繋げていくものです。自分のものではなく、だれのものでもありません。一つの「いのち」は多くの「いのち」と繋がっています。家系図を見て下さい。自分は一番下にあります。しかしそれを逆さまにすると自分は山の頂上にいます。そうです、自分は多くの先祖の礎(いしずえ)のおかげでいまここに存在しています。自分の「いのち」は自分のものでないことが分かります。他人も同じです。みんなそれぞれが「いのち」を引き継いでいるのです。

「いのち」は永遠で、目には見えないものです。それを私たちは「ほとけ」と呼んでいます。みんな仏性(ぶっしょう)を持っているのです。


十輪院 住職 橋本純信