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こころの便り
2010/06/30
これからの日本仏教

 

仏教が伝播した国々は、その国の土着の宗教と融合し、独自の仏教思想を作り上げて来ました。日本においては、祖先祭祀、神道、更には儒教、道教をも取り込みながら展開して来ました。しかし、宗教はまず権力者によって広められ、その統治に利用されてきたことも事実であります。我が国では、飛鳥、奈良時代から仏教は権力者の手中にありましたが、自由な展開も見せていました。それが江戸時代に至っては、全国の寺院は権力者に完全に掌握されたと言って良いでしょう。明治時代に於いては、家督制度と結びつき、家の宗教として、祖先崇拝を重んじるようになりました。

戦後は、新憲法の下、政教分離原則が徹底され、政治や教育の場で宗教を扱うことはなくなってしまいました。高度成長経済の結果、人々の心の中から宗教心が薄らいで行き、宗教は形式だけのものとなってしまいました。更には近年、核家族化、少子化、社会移動という現象がますます宗教を遠ざけています。またオウム真理教のような反社会的宗教が引き起こした事件によって、人々は宗教に警戒心をも抱くようになりました。

しかし昨今、バブル経済が破綻したことから貧困、自死、社会不安などの諸問題が現れ、こころの在り方がクローズアップされるようになって来ました。マスコミではいろいろ取り沙汰されているが、心理学者、社会学者、カウンセラーなどによる論評ばかりが出て来ます。たとえば、何か大きな殺人事件が起きると、新聞やテレビにはそのような人たちのコメントばかりです。宗教者の意見はほとんど見当たりません。宗教界からもいろんな意見は出てはいますが、大きな声にはならず、宗教は表社会から消えてしまったかのような感じがします。

今の日本社会は無宗教を名乗る人間が多く、それが何の恥じらいもなく、むしろ正しい考えであるかのように、堂々と言ってのけます。宗教離れは先進国共通の傾向にあるが、日本はその面では先端を走っています。果たしてこれでいいのか、甚だ疑問であります。自殺者の割合が先進国の中で飛びぬけて高く、猟奇的な事件も頻発しています。人の命が随分軽くなりました。それだけではありません。仕事に不満を持ち、日常生活に不平を言い、自分勝手な権利を主張するものや、将来に不安を感じ、生きる目標が見つからず、気力の失せた若者も多く見受けられます。

人は何のために働くのか、何のために生きているのか? このことを自分ではっきりと押さえておかなくてはなりません。今の世の中はハイスピードで移り変わって行きます。毎日、時間に追われて1日が過ぎ去り、世の中の動きについて行くのが精一杯で、働く意味、生きる価値を考える余裕が出来ないのが現代人です。

戦後60数年、日本は欧米の思想を基軸とした先進国文化を取り入れて来ました。日本古来の精神文化を発展させず、欧米の精神文化の表層部分だけを真似て来ました。家族を分断させるサラリーマン社会となり、思想を伴わずに欧米文化に傾倒し、祖先崇拝、神道、仏教に関心を抱くことなく過ごして来ました。政治、教育も宗教指導することを止め、経済至上主義を貫いて来ました。

そんな現代人も、今は心のオアシスを求めようとしています。しかしその具体的な方策が見つかりません。仏教書が多数出版されているのもその結果かも知れません。読んでみて気づくのは、そこに書かれてある内容と見聞きする寺の実情とのあまりにもかけ離れた現実です。全国にゴマンとある寺院は檀家寺、祈祷寺それに拝観寺ばかりで、仏教思想を実践していると思しき寺はどこにあるのかと疑問を持つのが当たり前です。その結果、葬式仏教、まじない仏教、あるいは観光寺などと言わざるを得なくなります。

冒頭で述べたように、仏教はその国の土着の宗教文化と混ざり合い発展するが、権力者の影響をも受けて形を変えることがあります。日本の場合はその影響がかなり強く、長きに亘って大きく変貌しました。出家者であるはずの僧侶が肉食妻帯を許され、日常生活は一般人と全く変わらない立場に置かれました。檀家制度とそれに続く家督制度により、ほとんどの寺院は特定の人々=檀家のための供養寺となりました。全国津々浦々の家々は必ずどこかの寺に属し、その檀家となります。檀家は寺を維持する義務があり、維持費や寄付行為で寺の存続を守ります。寺も檀家も現状維持を望み、世襲制を好んで大きな変化を嫌います。檀家にとっては自分たちの寺であり、寺は檀家の先祖供養を使命とします。今でも檀家が菩提寺の後継ぎの教育費用を負担するようなことも珍しくはありません。自分たちの寺という認識が根強く残っています。

昨今、社会情勢が大きく変貌し、檀家制度が崩壊しつつあります。そして寺は公益法人だから特定の人々だけのものではない、という意見が出て来ました。すべての家がどこかの寺に属していた時代なら、そのような意見は出て来なかったでしょう。しかし、少子・核家族化が進み、社会移動が盛んになり、また人々の宗教心の希薄化で公益法人としての立場が揺らいで来ました。今の時代は、寺は自分たちの寺だという意見と、いや寺は非特定の人々のためにあるべきという意見に二分されます。将来は後者の意見が幅を利かすようになると思います。それも10年後にはすでに当たり前になっているかも知れません。しかし現在、寺を一生懸命支えようとしているのは、高齢の檀家であり、またそこを守る住職には高齢者が多い。寺にとっても熱心な檀家にとっても、そこには苦難の将来が見えます。世間は手厳しい。多数意見が支配する世の中にあっては、これからの寺の将来は不透明です。寺の後継者難がそれを物語っています。

このような問題点を議論する前提として、大きな要素が欠落しています。信仰心の問題です。信仰心を持たずして寺は必要ありません。寺は礼拝の場所であるが、形だけの礼拝は無意味です。神仏に対する畏敬と尊敬の念を持ち合わせていなければなりません。無宗教を自負する今の日本人にどれだけの信仰心があるのか?自分たちの寺だと言って熱心に守ろうとする高齢の檀家にこそ、その篤き心を見ることが出来ます。

今後、寺が発展し、本当に人々の心の支えとして、その機能を十分に発揮するためには、まず第一に、信仰心の高揚が挙げられます。これは僧侶も含めてであります。信仰心なき宗教はなく、信者なき寺院も存在しません。一人ひとりの努力、寺の布教も大切ですが、国家を挙げて国民が信仰心を養えるような、特定の宗教に偏らない施策を講じなければ、どんなに経済が発展しても、日本はこころ貧しき国のままであります。

十輪院 住職 橋本純信